リアルな顔

合言葉は、『セラヴィ!』  私自身が感じたことを好きに文にしています。映画が大好き。忘れてしまうので言葉で記録。評論していません個人の感想です。ネタバレあり。記事タイトルは、映画のキャッチコピーにしています。

灼熱の眼差しが私を誘う。褐色の大地、追憶のカメルーン。

ショコラ  Chocolat  (1988年)

クレール・ドニ 監督

監督の長編デビュー作。

やっと鑑賞できたよ、ドニ監督作品。

この春は念願!のドニ監督祭でした。フランス映画祭で美しい仕事からはじまり、一昨日、日仏学院で2本鑑賞。トークショーで監督作品の冒頭シーンをいくつか観ることができた。監督作品は冒頭シーンが素晴らしいとのこと。冒頭シーンは重要だよ。おもろいか、アレレ…が分かっちゃうからね。(なんとなくね)1番観たいパリ18区、あぁ、つづきが気になってしょうがない。次回観れることを楽しみに待っていよう。

監督の生い立ちやらキャリアを聞いて、浅くしか考えられていなかった作品に対する気持ちが深く考えることができたし、というか自分の中でまとまらないので文字にせずにはいられなくなり、ひっさびさにここにログインした。(アイアム・ミッカボウズ)

 

デビュー作品とは思えませんよ。最初に言うとわたしはプロテが水浴びしているシーンあたり居眠りして抜けている。なぜわかるのかというと、トークショーでプロテの行動が高貴であるシーンとしてスクリーンに映し出されたからです。なんて重要なシーンをわたしは見逃したんや!とショックでしたが、しょうがない。なぜプロテは泣いていたのだろう。物語は進み、ある日ママはプロテをクビにしてとパパに頼む。そこから、ママはプロテを異性として見ていたことに気付く。それは欲望?友達が使用人かっこいいわねと言うシーンがあるが少なくとも暇を持て余したさみしさを感じている婦人達は異性を欲望の眼差しで見てしまうのかもしれない。それは自然のことなのだろう。意味不明な同郷達とも出会っていく中で、プロテは真面目な好青年だからね、尚更ステキに見える。わたしには立派な戦士に見えた。ママは黒人の方を友達と紹介していたシーンがあり、あぁ、ママは黒人を白人と平等に見ることができる人なんだと分かった。

フランス一家とプロテは見えない線をお互いが踏み込まないように、絶妙な距離感で関係を保っていた。だが来訪者により崩れていく。フランスはプロテを友達だと思っている。それ以上の家族だと思っていたのかもしれない。目の前で白人たちが黒人を動物のように扱う。言葉で侮辱する。『???』混乱したのはフランスとママだけでプロテは最初からわかっていた。決して交わることがないと。見えない鎧で自分自身を守っていたのはプロテで剥がそうとしたのはママたちなのだ。

あの火傷は忠告にも見える。結局は使用人として雇われているから、言われた与えられた仕事以外はしない。だからフランスの熱いかの問いに答えなかった。守る必要がないから。友達以上の気持ちはフランスの一方的であり、プロテは違う。そう思うと切ない。もちろん心の内はそうじゃないと思いたい。複雑だよね。でも一生消えない痕...プロテからのメッセージにも思えるし、又は仕返しなのかもしれない。

過去も未来もない手だと言われていたが、置かれた場所で咲きなさいじゃないけども、そおゆうことなのかもねとも思う。

自伝的でありフィクション。その中には監督自身の''わたしは何者か''という叫びも込められているのだろう。''色''が強く関係してくるよね。明らかに目で見てわかる違い。同じ人間なのになぜ色が違う。同じ人間なのになぜ対等じゃない。同じ人間なのになぜ。なぜ。大きすぎる混乱の要因。人間がつくりだしたよろしくない潜在意識。

目を閉じて姿かたちを見ないで、魂が叫ぶ、帰りたいと。やっぱり人間は自分のルーツに帰りたいと思うのだろう。初めに出会った黒人親子はカメルーンに辿り着いたけど結局はアメリカ人なんだという台詞から器は黒色だが中身はアメリカなのだ。フランスの魂はカメルーンと叫ぶ。私が海外に移住しても魂は日本と叫び続けるのだろうね。間違いなく自分のルーツは日本だから。

バターにアリ、あれその時が初めてじゃないよね?笑 

素晴らしい作品。

はぁ自分は書いてスッキリ。

まだまだ素晴らしい作品に出会えていることが幸せです。ありがとう!